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ありがとうございます。



ブログの更新が空いてしまい、
申し訳ございませんでした。



       ☆

私ごとですが、
先日、実父が他界いたしました。
享年89歳でした。

父を偲んで、
この場をお借りして
父についてお話ししたいと思います。
良かったらお付き合いください。

        ☆

父は昭和5年生まれ。
父の家族は、開拓団として満州に
昭和14年に渡満したそうです。


終戦の3日前に避難命令が出たものの、
日本が敗戦した事を知り、
当時日本人に領地を奪われた中国人の一部が
憎しみの為、日本人に対して物取りや、
抵抗すれば命をも奪う凶悪集団が現れたそうです。


さらに、日本軍が育成した
中国人で構成された「満州国軍」が
満州開拓団の避難民を襲ってきたそうです。


それらの凶悪集団から逃れる為に、
満州開拓団の一般市民は、
命からがら逃げたそうです。


当然、父と父の家族も皆と一緒に逃げました。


逃げる途中、
終戦の次の日に、
父の父(祖父)は、銃で撃たれ死亡。
父の母(祖母)は、
末の妹を背負ったまま背中から銃で撃たれ、
弾は二人の身体を貫通し、二人とも亡くなったそうです。


父も逃げる途中、
足を銃で撃たれ、弾は貫通したものの大怪我を負ったそうです。


命からがら、
父と、姉二人、妹、弟と逃げ
230km離れた日本人収容所まで辿りついたそうです。


逃げる途中、
助けてくれる中国の方もたくさんいらっしゃったと聞いています。
その方たちのお陰で逃げ切れたと、
父は話してくれました。


しかし、収容所に着いてからも
生きて行くのが大変でした。


日本国からの援助物資は全くなく、
親がいない兄弟が食べていくには、
大変な苦労があったそうです。

日本人収容所に抑留されてから
8年後の昭和28年にやっと
日本に帰ってきたそうです。


日本に帰ってからも、
父は、長男であることから、
姉、妹、弟の面倒を見るために苦労したと、伯母からききました。


        ☆ 

定年退職後は、
この様な戦争体験を子どもたちに
ボランティアで話をしていました。


真剣に聞いてくれる子どもたちの事を、
嬉しそうに話している父の顔が思い浮かびます。


父の晩年は、病気と闘うことが多かったです。

10年前に喉頭癌が再発し、
声帯の全摘をしたため声を失いました。

その他にも病気を抱えていましたが、
昭和・平成・令和と懸命に生き抜いたと思います。


       ☆


父が車椅子の生活となり、
介護が楽になるようにと、
実家の片付けをはじめました。

片付けをしている間、
何度も親と喧嘩しました。
そして、半年以上かかりました。
(T_T)

紆余曲折、いろいろありましたが、
実家を片付ける事ができました。
最後に親孝行できたかなと思っております。


        ☆

親は、元気に見えても、
想像以上に老いが進んでいます。
体力的にも、気力的にも!

「親が元気なうちに1日でも早く、実家の片付けをしましょう!」

戦争を覚えている親を持つ人は、
減っているとは思いますが、
食べ盛りの時期に十分にご飯を食べれなかったり、
欲しい物があってもお金がなかったり、
お金があっても欲しいものが手に入らない時代を
生きてきた人達が、物に執着する気持ちはわかります。


実家の片付けを
何度も挑戦し、
何度も挫折している方もいらっしゃるでしょう。


しかし、根気強く続ければ、
親も少しずつ変化していくはずです。


変化を感じる前に、
挫折してしまう方もいるとは思いますが、
決して諦めないでください!!



家族のため一生懸命働いてきた両親に
散らかったホコリまみれの部屋で
晩年を過ごしてもらいたくないですよね!!


充実した老後を過ごさせてあげたいものです。


「親孝行したいときには親はなし」
となってしまう前に、
実家の片付けを真剣に考えてみては
いかがでしょうか?


今回は、
長い話となってしまいましたが、
最後まで、お付き合いいただきありがとうございました。

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